今朝、右手の筋を痛めた。
動きにくい状態になっている。
オカシイ。
トレーニングのメニューも、
サンドバッグや、砂袋による部位鍛錬も、
若い時よりは、
控えめにしているのだが、
更に弱まったのだろうか。
僕は、まだまだこんなもんじゃない。
そう信じていた。
その時、信仰という概念が頭をよぎる。
僕は、自身の肉体が負荷に耐えられると、
信じていた。
当たり前のように。
呼吸するように。
疑いなど介在しない純然たるもの。
かつて、僕にはクリスチャンの知人がいた。
彼女は、洗礼を受けクララ、
定かではないが、
その様な洗礼名を受けていた。
しかし、
僕は正直、無神論者であり神を信じるということを軽視していた。
拠り所かな。
それ以上でも、以下でもない。
そういった認識。
さて、話は戻り現在。
僕の右手は麻痺している。
多分、軽い一過性のもの。
だが、自分がそうである様に、
世界は信仰に溢れている。
そういった旨の思考に至る。
学徒は、学問。
社会は、経済や情勢。
ファンは、推しを。
芸人は、笑いを話芸を。
冒険家は、新たな世界。
科学は、文明の流れ。
医療は、生命の尊さ。
財界は、利権にお金。
法曹は、法律や善悪。
芸術家は、新たな感性の芽吹き。
その他様々。
無論、邪な考えの者もいて、
玉石混淆。
挙げればきりがないが、
僕も、武に信仰を持っていたのかもしれない。
というか、武とは言い過ぎで肉体。
その縛りは、苦痛ではなく、
戒めであり、幸福。
僕も多分に漏れず。
信仰心に生かされている。
発見だった。
では、また。