郵便局のおじさんは9時40分ごろやってくる

日常を怯えて過ごす人間の雑記

怪我の功名

今朝、右手の筋を痛めた。

動きにくい状態になっている。

オカシイ。

レーニングのメニューも、

サンドバッグや、砂袋による部位鍛錬も、

若い時よりは、

控えめにしているのだが、

更に弱まったのだろうか。

僕は、まだまだこんなもんじゃない。

そう信じていた。

 

その時、信仰という概念が頭をよぎる。

僕は、自身の肉体が負荷に耐えられると、

信じていた。

当たり前のように。

呼吸するように。

疑いなど介在しない純然たるもの。

 

かつて、僕にはクリスチャンの知人がいた。

彼女は、洗礼を受けクララ、

定かではないが、

その様な洗礼名を受けていた。

 

しかし、

僕は正直、無神論者であり神を信じるということを軽視していた。

拠り所かな。

それ以上でも、以下でもない。

そういった認識。

 

さて、話は戻り現在。

僕の右手は麻痺している。

多分、軽い一過性のもの。

だが、自分がそうである様に、

世界は信仰に溢れている。

そういった旨の思考に至る。

 

学徒は、学問。

社会は、経済や情勢。

ファンは、推しを。

芸人は、笑いを話芸を。

冒険家は、新たな世界。

科学は、文明の流れ。

医療は、生命の尊さ。

財界は、利権にお金。

法曹は、法律や善悪。

芸術家は、新たな感性の芽吹き。

その他様々。

 

無論、邪な考えの者もいて、

玉石混淆。

 

挙げればきりがないが、

僕も、武に信仰を持っていたのかもしれない。

というか、武とは言い過ぎで肉体。

その縛りは、苦痛ではなく、

戒めであり、幸福。

 

僕も多分に漏れず。

信仰心に生かされている。

 

発見だった。

 

では、また。