郵便局のおじさんは9時40分ごろやってくる

日常を怯えて過ごす人間の雑記

やさしい人になりたい。

ローティーンの時分に虐められて、

それを打破する為に拳足を鍛えた。

ハイティーンになった頃には、

もう暴力の的になることも無くなった。

 

武術に打ち込み、

少し結果を残して、

さらに武器術の修練にまで至った。

 

そして現在。

変わらずトレーニングは続けている。

暗器まで、所持している。

 

だが、それが何になる?

強くなりたい。

周りの人達を護りたい。

ナメられたくない。

 

もっともらしい理屈を挙げればキリがないが、

個人の武など限界がある。

 

では、何故?

僕は何故、鍛えるのか?

 

やさしい人に、なりたいからだ。

 

とはいえ、力を付けて相手を砕く練習に、

やさしさ、

という概念の介在する余地はあるか?

 

答えは、NOに限りなく近い。

護身術としてならばまだしも、

殺し技を鍛錬する必要は無いだろう。

 

そして、改めて自分の内省に入る。

慄然とした。

 

やはり、僕はやさしさとは、かけ離れた人間だ。

余裕が乏しいのだ。

自分のチカラを高めていけば、

他者をケアするゆとりが生まれるという、

歪曲した思想が内部にあった。

 

力を以て、弱者や仲間を守る。

響きは良い。

そして同時に意味するのは、

ニードルは、暴力で全てを丸く納められる。

そういう短絡的で卑劣な人間だということ。

 

今から間に合うかは、分からない。

だが、

僕は履き違えてきた考えを改め、

清廉な人間にはなれずとも、

そういった真の強さを追及したい。

 

その視座に立ち、

長年をかけて性根をなおして、

やさしい人に、僕はなりたい。

 

では、また。