ローティーンの時分に虐められて、
それを打破する為に拳足を鍛えた。
ハイティーンになった頃には、
もう暴力の的になることも無くなった。
武術に打ち込み、
少し結果を残して、
さらに武器術の修練にまで至った。
そして現在。
変わらずトレーニングは続けている。
暗器まで、所持している。
だが、それが何になる?
強くなりたい。
周りの人達を護りたい。
ナメられたくない。
もっともらしい理屈を挙げればキリがないが、
個人の武など限界がある。
では、何故?
僕は何故、鍛えるのか?
やさしい人に、なりたいからだ。
とはいえ、力を付けて相手を砕く練習に、
やさしさ、
という概念の介在する余地はあるか?
答えは、NOに限りなく近い。
護身術としてならばまだしも、
殺し技を鍛錬する必要は無いだろう。
そして、改めて自分の内省に入る。
慄然とした。
やはり、僕はやさしさとは、かけ離れた人間だ。
余裕が乏しいのだ。
自分のチカラを高めていけば、
他者をケアするゆとりが生まれるという、
歪曲した思想が内部にあった。
力を以て、弱者や仲間を守る。
響きは良い。
そして同時に意味するのは、
ニードルは、暴力で全てを丸く納められる。
そういう短絡的で卑劣な人間だということ。
今から間に合うかは、分からない。
だが、
僕は履き違えてきた考えを改め、
清廉な人間にはなれずとも、
そういった真の強さを追及したい。
その視座に立ち、
長年をかけて性根をなおして、
やさしい人に、僕はなりたい。
では、また。