ロシアによるウクライナ侵攻。
今も続く悲劇の状況。
TVの画面越しだからとか、
遠くのことだからとか、
そんな緩慢とした感覚は、
とうに捨てた。
日本に於いても戦争、
特攻隊、
原爆投下、
戦犯問題、
昭和天皇の責任の有無、
憲法についての議論、
センシティブな話かも知れない。
ただ、生命の話がしたい。
夢を見る間もなく、
愛を知るまで至らず、
片道の酸素で魚雷になった若者。
スピード重視の木製戦闘機による突撃。
そんな死を、僕は実体験してはいない。
だが、語ったり聴いたりした。
過去の事だから?
関係ないから?
主張する権利は無いのですか?
左翼は中国に帰れとか、
売国奴とか、
非国民とか、
言われたけれど、
そんなのは、関係無い。
例えば、
香月泰男のシベリアシリーズ。
被爆者の写真。
アジア人に対する行為。
歴史を紐解けば、
嫌でも直面する。
ネット、国家礼賛本は巷に溢れている。
そして、その知識で力ずくで僕を押さえ込もうという人間もいる。
神格化されたり、
国をあげて弔われたりする偉いさん。
メディアリテラシー問題に、
ヘイト、
犯罪の跳梁に、
暴力の行使の広がり。
僕は、平和のための話がしたい。
ある方が言っていた。
戦場で死んだら、
ポケットに忍ばせた種から、
新しい花が咲く。
そうして争いに抗うと。
イムジン河の近くで、
いつか南北を繋げたいと、
訴える老いた大道芸人の方。
地雷で足を失った子供たち。
爆撃で、壊滅する建築物と、
可視化しずらい大量の、
死屍累々。
どんなに、
バイアスをかけられても、
殴られても、
或いは傷つけられても、
僕の意思は、僕のものであり、
決して暴力で、
言葉、身体的、
圧力で攻められようと、
揺るがせには出来ない。
左とか右とか、
それ以前に、人間として、
平和と愛のことを考えて生きたい。
先の戦争の体験者は、
間もなく居なくなってしまう。
そんな時、
報道、資料、語り部、
その他にも、
後世に伝えなければならない。
如何なる、雄弁な人物も、
リアルな死を体感した者のパワーには、
届かない。
パワーとは、腕力とかコネでなく、
その人物の年輪。
支離滅裂かもしれないが、
自分達やその先人の事を見つめる事無しに、
未来への平和は無い。
そして、
殴られたり罵倒されようが、
刺されようが、
撃たれようが、
このひとかけらの主張を、
僕は執着といえるほど、
貫きたい。
では、また。