郵便局のおじさんは9時40分ごろやってくる

日常を怯えて過ごす人間の雑記

個人的な時代

僕がスガシカオに吸いこまれたのが、中学。

アルバム『Sweet』

大江健三郎の影響が色濃いという歌詞を、

ライナーノートで何度も読んだ。

 

さて、先日のTV番組で、

大江健三郎特集が放送され、

齋藤飛鳥

スガシカオ

こうの史代

朝吹真理子

中村文則

 

様々な方々が、大江文学への想いを述べられていた。

 

唐突だが、僕は護憲派

高橋和巳を読み、

世にインテリ数あれど、

立花隆こそが知の巨人だと考える。

現代文学ならば中村文則も好きだ。

 

ここまで言うと、

反感めいた印象を与えるのでは?

そんな邪推を抱いてしまう。

 

実際のところ、

高校では、

小林よしのり愛読者からは非難され、

大学では、

日本文学科、

被爆地から近い場にいながら、

その痛ましさを論ずる人物とは会えなかった。

 

そんな中で、

大江健三郎作品

『われらの時代』に撃たれた。

厳密に言えば、

他の作品にも活目させられたが、

最初の一冊目が、新潮文庫のそれだった。

 

今も、

「どこそこの軍事力ならば某国など壊滅だ」

東條英機?ああ、雅楽の」

 

といった方もいるし、それはそれでいい。

 

でも、僕からは言わずとも空気感からか、

嫌な印象を与えたのか、

糾弾されたこともある。

それでも曲げられない思想はある。

 

形骸化した民主主義という概念。

世界の惨状に、

苛立ち、ビビり、悲しむという、

活動しない傍観者≒デザンガジュマン

そんな僕だったが、

安保闘争の系譜やサルトルを読んで来た10代、

たたかれた20代、

そして30代の現在、

アンガージュマンの意気が昂まってきている。

行動に移していた父の影響もあるが。

 

自分が生まれる何十年も前の話だが、

こういった活動に意識が引っ張られる。

 

大江健三郎氏、

偉大な方が、また1人いなくなってしまった。

 

貴様如きが生意気にと言われるか?

知識や地位が無ければ発言してはいけないのか?

それは、兎も角として、

僕の中で、ひとつの時代が終わった。

と同時に、

今度は、自分の声で時代に訴えねばならない。

 

最後に、ここまで理屈を捏ねている様に感じられる方もいらっしゃるかも知れない。

 

しかし、

僕が願うのは、皆が平穏で尊厳を守られて、

温かい食事に満たされて明日への夢を抱いて生きていくこと。

それが崩れている事への憤りが、

この記事に顕われてしまったというと、

言い訳がましいであろうか?

 

とは言え、小心者の僕が持論を展開。

胃腸薬を飲もう。

 

では、また。